オペラ・ガルニエとその周辺(バロック復興)(2/2)




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オペラ座に入った人は、エントランスホールから少し階段を下りて、 この巨大なホワイエ空間に出会います。 まず、正面には人を誘う巨大な階段が構えています。 実にドラマチックな階段です。 階段という動きのあるものを、建築表現のメインに据えるのも、 バロックの特徴と言えましょう。


そして回りを見回すと、堂々5層(6層?)の吹抜けで、各階には周回廊が回っています。 周回廊を巡る人々の視線が交差し、また大階段へと注がれます。 この空間自体が劇場性を備えていて、祝祭を盛り上げているのです。 そして各階に巡らされている彫刻・装飾はじつに豪華。 うねるような曲線、縞めのうや色大理石を駆使し、しかも照明とうまく組合わせた これらの彫刻・装飾、これこそはネオ・バロックの心髄です。


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オペラを見に来たとき、まず人々はここを上りながら、 オペラというものの豪華さを心の中で膨らますのです。 オペラの前、そして後の余韻の心憎いばかりの演出。 そしてそこは出会いの場でもあります。 着飾った上流階級の人々の嬌声が今にも聞こえてきそうではありませんか。



















この一種劇的な表現、それがバロックの特徴です。まぁ言ってみれば、 この建物はコテコテのバロックなわけです。 では最後に、なぜこの時代にこんなバロックが流行したのか、 少し歴史を振り返って見てみましょう。


19世紀のヨーロッパは、建築的には「歴史主義」の時代と呼ばれます。 これは様式の「復興」の時代でもあります。 ヨーロッパはそれまで新古典主義の時代で、古代ギリシャ・ローマ一辺倒だったのですが、 「ギリシャ、ローマが偉大なのなら、じゃあゴシックはどうなんだ?」という事になって、 ゴシック建築が見直され(再評価され)ます。 ゴシック建築に関する研究が進み、多くの文人がゴシックを賛美します。


そしてゴシック様式に基づく建築が多く建てられました(例えばロンドンの国会議事堂)。 これが「ゴシック復興」です。 次にゴシックの前のロマネスク建築が史学的に発見されて、再評価されます。 このような機運に乗って、そもそもローマ建築の復興であったところの ルネサンスまで「復興」し、その次の時代のバロックまで「復興」するように なったのでした。


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フランスは18世紀末に革命により大混乱に陥りましたが、それを最終的に収めたのがご存じ ナポレオン1世(在位1804-15)ですね。この人は、古代ローマが好みで、 パリに古代ローマ的な、威厳のある建築を建てようとしました。 少し時代を下ってナポレオン3世(在位1852-70)は、最初に述べたように バロック様式が好みでした。 バロックの彫りの深い劇的な表情が、新しいパリを飾るのにふさわしく思えたのでしょう。


19世紀は、様式が次から次と復興し、そして自由に扱われました。 ヨーロッパの建築界は、過去にばかり目が向いていたのでした。 しかし19世紀も末になって、情勢は大変化を起こします。 (その辺は、 ギマールとアールヌーヴォー、そして・・ をご覧下さい)。 オペラガルニエが完成したのは1874年、そしてアールヌーヴォーのタッセル邸が 建ったのが1892年です。


タッセル邸は、建築が過去を向かなくなる記念碑的な建物の一つと言えるかも知れません。 時代が変わるのはもうそこです。 オペラ・ガルニエは、建築が過去を向いていた時代の、そのいわば爛熟期の最後の大作といえます。


そして、オペラ座の建設期間、1861年から1874年というのは、日本が鎖国を廃止し 新しい国家建設に向かった激動の時代にちょうど重なっています。 日本が本格的に西洋から学ぼうとした、まさにその時代にオペラ座は建ちました。 オペラ座は当時の日本人から見ても、西洋文明の華々しい象徴の一つだったことでしょう。 現在は別のオペラ座(バスチーユオペラ座)が建ちましたが、 オペラガルニエはこれからもずっと現役です。 いつまでも、輝かしい19世紀の栄華を伝え続ける事でしょう。


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