ギマールとアールヌーヴォー、そして・・(1/3)
パリの西端、ブローニュの森近くに、
アールヌーヴォー建築が沢山あるパッシー地区(16区)があります。
ここでは、有名なH・ギマールの作品を中心に、アールヌーヴォーの建物を
眺めながら(注1)、
建築におけるアールヌーヴォーとは一体何だったのか?、
考えてみましょう。
注1:
残念ながら建物の外観だけです。内部も見られたら良かったのですけどね・・。
アールヌーヴォーは、イギリスのW・モリスの美術運動などに端を発しました。
曲線を多用し、植物的・有機的なその意匠は、工芸、家具などの装飾芸術の世界にとどまらず、
他の美術分野、建築など広範に浸透します。
1892年にはV・オルタがタッセル邸をブリュッセルで竣工させています。
皆さんご存知のA・ガウディも、この頃から大胆な曲線を多用するようになります。
当時のイギリスの室内装飾や家具デザインは、過去の様式や、
ジャポニズムなどの外国の文物の影響を色濃く受けてきました。
当時イギリスのリバティ百貨店で売られていた家具を見ると、如何に日本の影響があったか分かります。
そんな中で、『我々自身でデザインをやってみよう!』という当時のデザイナー達の
意気込みが上がって、それがアールヌーヴォーの発端です。
彼らはその発想の源泉を、蔓草や昆虫のような自然物のイメージの中に求めたのでした。
過去や様式に囚われない新しいデザインを、という動きはすぐにヨーロッパ中に広がり、
例えばドイツではゼツェッシオンという運動を起こします。
ヨーロッパ建築界では、それまで何百年にもわたってずっと過去の様式を踏襲してきたのですが、
アールヌーヴォー建築によって初めてそれが打ち破られました。
過去の様式と断絶した新しい意匠が生まれたのです。
当時にしてみれば、たいへん画期的な運動だったわけです。
なのにこの運動、あるいは現象と言いましょうか、それは1910頃を境にどんどん
廃れていってしまいます(注2)。
なぜアールヌーヴォー建築は止んだのでしょうか。
「アールヌーヴォーの意匠は建築を装飾するものであって、建築の骨組みとは関係なかった。
一種の『アップリケ』に過ぎなかった」という指摘があります。
ここで紹介している写真を見ても確かにそうですよね。
また当時のアールヌーヴォーのパトロンが主に貴族・金持ちで、大衆的ではなかったという
指摘もあります。
注2:このあと装飾の世界ではアール・デコという運動が起こりますが、
植物的な長い曲線は否定され、幾何学的になってきます。
美術の世界では、例えば未来派のように機械文明礼賛にもとづく造形が試みられたり、
また直線や四角など無機的な形をベースとした構成主義が発展してゆきます。
しかしこの問題は、大きな歴史の中で見直す必要があります。
次はその話をいたしましょう。
続く−−→