パッサージュとエッフェル塔(2/2)
パッサージュは一般商店という「建築でないもの」の延長で、
しかも過去の様式に全く無関係に作られた新参者でした。
もしも例えばあるパッサージュを当時の有名な建築家に頼んで作ったとしたら
(つまり、美しいとされる昔からの様式で建物を飾って「建築」にしようとしたら)、
石造でど〜んと立派なファサードにオーダーが立ったりして、
途方もない費用と工期がかかった事でしょう。敷地も足りなかったでしょう。
商店主にしてみれば、そんな事はハナから考えていません。
ある程度お金を出せば、当時は温室作りをしていた人が居ますから、ちゃんとガラスの天蓋を作ってくれます。
自分たちの手の届く範囲で、ささやかなデザインの試みもしたわけです。
まともな「建築」としてのデザインでなく、庶民の工夫によるデザイン(とでも呼ぶべきもの)が出来ました。
こうやって成立したデザインである事が、逆にいま再評価されているのだと思います
(注1)。
注1:
パッサージュの中でも色々事情の違いはあるようです。
ギャルリー・ヴィヴィエンヌとギャルリー・コルベールは、イタリア人を連れてきてデザインしたそうで、
石畳がきれいですし、コルベールの方にはオーダー(古代ローマの柱を模したもの)も並んでいます。
すぐ下の写真がそうです。
入口も彫刻で飾ってあって、パッサージュの中では一番お金をかけたのではないかと思います。
当時の立派な邸宅の内装を思わせるものがありますが、
そこまで徹底して高価ではなく、どちらかと言うとハリボテ的である事、
落ち着きよりは華やいだ感じを重視している事など、
現代の商業建築のはしりとして興味深いものがあります。
当時の建築家は、世の中に建物の種類はうんとあるのに、
その一部しか「建築」と見なしていなかったのです。
また、当時新しく登場した鉄、ガラスなどの
素材にもまともに対応しようとしていませんでした(一部の例外を除いて)。
鉄道の駅を見ると、当時の建築家の役割・スタンスが分かります。
駅のレールや車両、プラットフォームは鉄骨で出来ていて、これは技術者の領分です。
ヨーロッパの駅のホームは、どこでも行き止まりに出来ていて、
鉄骨で大きな屋根が回してありますよね。あれが技術者の作る部分です。
建築家が何をしたかというと、駅舎が大通りに面している、その正面デザインをやったのです。
あの飾り立てがあったからこそ駅舎が「建築」になった、というわけです。
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パリ、北駅 |
このような考え方は、何が困るでしょうか。
技術が発展すればする程、建築家がタッチしない部分がどんどん増えていって、
それが既成事実として都市をかたち作ってしまうのです。
今風に考えれば、建築家というのは都市を形作るものを作る人、という事ではないのですか?。
19世紀には、この矛盾の口がパックリ開いたまま時間だけが過ぎていきました。
幾つか著名な事件を挙げましょう。
水晶宮と呼ばれる有名な建物があります。1851年にロンドン万国博の主会場を作る際、
建築家に打診しても費用・建設期間が全然合いません。で、当時温室を作る仕事を
していた技術者パクストンに頼んだら、ごく短期間でそれまで考えられないような
大架構空間が出来てしまいました。でも建築家達はこの建物を全く無視するか、
或いは醜いものとして言及しました。
1889年には、水晶宮をしのぐ技術者の快挙(建築家からすれば暴挙!?)が行われました。
エッフェル塔です。
パリ万国博を開く時、フランスの威信と文化を世に知らしめる為にどうするか、
検討が行われました。そこで、フランスが誇る当時最新の鉄骨技術を使って、それまでに世界のどこにも
ないような高い鉄塔を万博会場に造る案が出たのでした。
高さ312m。ギュスターヴ・エッフェルの作ったエッフェル塔。
鉄骨の構造がそのまま美を形作っています。
またエッフェル塔には東京タワーと違って装飾があって
(4本足の作るアーチの下縁部分などがそうです)、
当時の美的観念も反映していて、よく出来ているように見えます。
しかし当時、建築家達は醜いと言って反対したと聞いています。
文人達による反対運動もこの時おきました。
よく知られたことですが、エッフェル塔は、作った当初は残すつもりがありませんでした。
今となってみれば、まぁよくぞ残ってくれた!、というところですね。
さて、建築家達がやっと本腰を上げて鉄骨など新しい技術に対応した建築を
作り始めたのは、19世紀の最後の頃です
(注2)。
ベルラーエの作ったアムステルダム証券取引所(1896-1903)は、鉄骨による大架構
を取り入れていて、新しい技術による建築を模索していた多くの建築家達の注目を浴びます。
注2:
例外として、E・ラブルーストは1842頃すでに鉄骨をうまく使った建築を作って
います。しかし鉄などというアカデミックでない素材を持ち込んだ彼には批判があびせられました。
また、「新しい技術には新しいスタイルが必要」と考える後代の建築家からも無視されました。
しかしこれは水晶宮(1851)からほぼ50年も経った話です。
建築家という人種が、古いカビが生えたような様式主義から身を乗り出して、
新しい建築技術に挑むようになるにはこんなに時間がかかっています。
水晶宮やパッサージュやエッフェル塔や、そういう技術者達・庶民の
先駆的業績が建築家によって評価されるのは更に後になってからのことです。
ヨーロッパの「建築家」というのは、かなりスノッブな人種ですね。
美しさの基準を持ち、その基準にかなうものだけが「建築」だ
という信念を持ち続け、そして時代に遅れてしまった建築家達。
そんな建築家(あるいは建築という古い観念)と、
技術者・庶民の関係を思い浮かべながらエッフェル塔やパッサージュを見ると、
また違った見え方がすると思います。
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